仏教徒の修行も同じことである。その最高の段階に到達すれば、仏陀のことも、法(ダルマ)のことも、自己欺瞞からも、偽善からも、自由になる。しかるときは、不動智は、結局、無智であり――両者は二ならず、一である、ということができる。ここには、ある点を選択する際に、人に躊躇させるところの、分別智というものがなく、したがって、無念無想という心境の熟達にとって有害な、「止まる」ということが、どこにも存しないからである。無智の人は、智力をいまだ目ざまさぬから、素朴のままにある。賢い人は智力のかぎりを尽くしているから、もはや、それに頼らない。両者は睦まじい隣り同志である。「生ま知り」の人にかぎって、頭を分別でいっぱいにする。
(禅と日本文化 鈴木大拙より)
なんだか残しておきたいなと思ったので、ここに参照させていただきました。
無邪気な子供のように治療がやりたいなと思う、今日この頃です。
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