廻る世界の静止の点に。 肉体があるでもなく、ないでもなく、 出発点も方向もなく、その静止の点――そこにこそ舞踏がある、 だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで 過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もない方向もない運動、 上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ 舞踏など存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。 そこにわたしたちはいたとは言えるけれど、どこかは言えない、 どれくらいの間なのかも言えない、それを時間の中に置くことになるから。 現実的欲望からの内的な自由、 行為と苦悩からの解放、しかも、まわりは 感覚の恩寵に、静止かつ動く光輝に、囲まれている。 運動のない〈止揚〉、消去のない 集中、新しい世界と古い世界が 二つながら明瞭にされ、 その半恍惚の完成と 半恐怖の解消の中で、了解される。 それでも、変わりゆく肉体の脆弱さの糸で織られた 過去と未来の連鎖が、 肉体の耐え得ぬ天国と地獄から 人類を守ってくれるのだ。 過去の時間と未来の時間は ごくわずかの意識しか許さない。 意識するとは時間の中にいないこと、 だが、時間のなかでのみ、薔薇園での一時(ひととき)や、 はたはたと時雨の叩く四阿(あずまや)での一時、 霧の日の風吹き抜ける教会での一時が 思いだされもするのだ、過去と未来に取り込まれたまま。 時間を通してのみ時間は克服される。 (岩崎宗治訳)『四つの四重奏』T.Sエリオット
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